ピアノとの出会いからピアノの先生を志すまで

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好きで弾き始めたピアノ、
上手くなりたくて一生懸命練習したのに、
なかなか思うように弾けなくて本当に苦労しました。

だから、私はピアノの先生になろうと思ったのです。

 

テクニックの問題と本番の緊張に悩み、
2度の故障と挫折を経験しました。

それでも、私はピアノを弾きたくて、そして、復活しました。

 

第1回は ピアノとの出会いからピアノの先生を志すまでです。

 


この記事を書いた人
伊奈葉子 / Yoko Ina Piano Teacher

心と頭と身体をチューニングすればピアノはもっと自由に弾けます。演奏向上と故障予防に1日15分のウォーミングアップ。悩めるピアノ弾きを笑顔にするレッスンをしています。詳しいプロフィールはこちら


体育会系の両親

この親にしてこの子あり、と言いますが・・・

まず私の両親についてお話しましょう。

 

父は若い頃に体操のオリンピック候補選手で順天堂大学体操部創設者のひとりでもあり、私が幼い頃には大学教員・体操部コーチをしていました。

真正体育会系の彼は、音楽とは全く無縁であるばかりでなく究極の音痴でもありました。本物の音痴は100人に1人などと言われますが、彼は本物の音痴です。私は父ほどの音痴を知りません。

彼は私がピアノを弾きたいと言い出し、夢中になるのを誰よりも微妙な想いで見ていたことでしょう。それでもレッスンを続けさせてくれたのは、彼の口癖、

何でもいいからやるならとことんやれ!中途半端はダメだ!

の筋を通したからだと振り返り、レッスンを続けさせてくれたことに心底感謝しています。

 

母は少女時代にクラシックバレエをやっていました。本人曰く「才能もお金もなくてあきらめたのよ」ということで私のピアノ教育に全く無関心でした。

もっぱら鑑賞専門で芸術全般あいしていて、クラシック音楽も好きでした。よくFMのクラシック番組を流しながら家事をしていたのを覚えています。ピアノよりもオペラやバレエが好きで、最期まで音楽と共にありました。

40歳を過ぎてからクラシックバレエのレッスンを始めてわかったのですが、クラシックバレエって基本的に体育会系です。スポーツではなく芸術ですが、やっている人たちの気質は体育会系そのものです。

 

ということで私の両親は2人とも体育会系、竹を割ったようにサバサバしていて気が強く、負けず嫌いで頑張り屋・・・その点は私も受け継いでいますが、運動神経だけはどこかに置き忘れたようです。私はスポーツは全く苦手。走るのも遅く、体育の成績は他の教科に比べて凹なほど悪く、通知表をもらってくる度に両親を嘆かせていました。

彼らはまさか私がピアノを弾くことになるなどとは、思いもよらなかったことでしょう。

 

弾きたいように弾く《おもちゃ》としてピアノと出会う

ピアノと出会ったのは5歳の初夏のこと。

父に連れられて体育館に遊びに行った時でした。片隅に置かれたグランドピアノに魅せられ、

「あ~、私はこれを弾くんだ・・・」

そう思ったのです。

その晩、「ピアノが欲しい・・・」と言ったら、ほどなくして古いオルガンが我が家にやってきました。ピアノではなかったものの鍵盤に触れると音が鳴り、知っている歌などを演奏できるのが楽しくて、何時間でもオルガンの前で遊んでいました。

 

友達と『ピアノのおけいこ』が最初の先生

小学校に入り、音楽の授業で楽譜の読み方を覚え教科書の曲を順番に最後まで弾くのが楽しみになりました。

近所に(転居してくる前に)少しだけ(バイエルの初めくらい)ピアノを習っていた友達がいて、彼女が弾くのを見聞きして両手で弾くことを覚えると、片手でメロディーを弾くだけでは物足りなくて、合う音を左手で探すようになり、鍵盤に触れるのがさらに楽しくなりました。

 

同じ頃に、NHKで当時放映されていた『ピアノのおけいこ』という番組を見つけ、テキストを買ってもらって番組を見ながら練習しました。

そのテキストには子供用のバロック・古典派・ロマン派・近現代・邦人作品まで色んな作品があって、誰にも教わることがなかっただけに《自分で感じる》ということに素直でした。

たとえば、バルトークの『遊び』は戸外で土の香りの中での遊び、カバレフスキーの『ワルツのように』はきれいなフロアの上で可愛いドレスと靴で踊る・・・

この感覚は音楽をやる上で最も大切なことだと振り返り、今も忘れないように、思い出すことにしています。

 

ベートーヴェンとの出会い

私がクラシック音楽に心底感動した最初の体験はベートーヴェンでした。

バイエル併用曲集の中の「よろこびのうた」を弾いていると、母が「あら、第九じゃないの?!」と声をあげたことがきっかけとなりその年末に「第九」全曲をテレビで聴きました。

TV番組『ウルトラセブン』のようなはじまりから宇宙を飛んでいるような第4楽章の合唱まで、その壮大な世界に衝撃を受け、私の中でベートーヴェンは一躍ヒーローになりました。

詳しくはこちら
⇒ 第九をはじめて聴いた日|「音楽はミクロコスモス」私の原点

 

学校の図書館でベートーヴェンの伝記を見つけ、モーツアルト、バッハ、シューベルト、ショパン・・・音楽家たちの伝記を読んで感動しクラシック音楽の世界への憧れがふくらみました。。。

 

はじめての舞台は器楽合奏でした

初めて人前で演奏したのは、ピアノではなく器楽合奏です。小学2年生の時、市の音楽祭に出演するメンバーに選ばれ、器楽合奏でワルトトイフェル『スケーターズワルツ』を演奏しました。

私は大太鼓を叩くことになったのですが、指導&指揮の先生に

「大太鼓は全体を決める一番大事なパートなの、しっかりお願いね」

と言われ、母にカラヤン指揮ベルリンフィルのSP(CDなんてまだない時代)を買ってもらい、テーブルを叩いて練習しました。

裏面がウェーバー『舞踏への勧誘』で「これは大人の音楽だな」とちょっぴり微妙だったのを思い出します。

 

小学5年生からは鼓笛隊でリコーダーや小太鼓などもやり、とても楽しかったのを今もよく覚えています。

アンサンブルも、ピアノをひとりで弾くことも、私にとっては等しく音楽であることにかわりなく、この後も吹奏楽やオーケストラ、室内楽へと広がっていきます。

 

3年生の時に念願のレッスン開始

ピアノのレッスンを始めたのは小学3年生の12月でした。

当時としても遅いスタートなのは、両親は私にピアノを弾かせたいとはこれっぽちも思っていなかったここと、当時、とても田舎に住んでいたためそもそも近くにピアノ教室がなかったためです。

毎週土曜日に、自転車で30分、雨の日は歩いて1時間くらいかけて隣町の教室まで通いましたが、辛いと思ったことはなく、毎週土曜日を楽しみにしていました。

 

最初のレッスンで先生は、私がピアノを習ったことがないのに楽譜が読めてブルグミュラー25練習曲の「素直な心」や「アラベスク」が弾けるのをびっくりしましたが、「バイエルからやりましょうね」ということで『子供のバイエル上巻』(赤バイエル)をいただきました。

 

「指を立てて、鍵盤の底までしっかり押さえて弾きましょうね」

と教わり、

「(バイエルは)弾けるところまで弾いてきてね」

と言われて、全部弾いていったら、すぐに「下巻』(黄バイエル)をいただき、また「弾けるところまで弾いてきてね」と言われ、59番までは意気揚々と弾いていたものの次の60番でつまづきました。

 

60番ってポリフォニーなんですよね。

それまで右手がメロディー、左手は伴奏の曲がほとんどだったのでこの曲は本当に苦労しました。

なかなか弾けるようにならないのが悔しくて、べそをかきながら弾いていたら、様子を察した母に

「泣きながら弾くならやめなさい!」

と怒られ、やめさせられたら大変だと思い、泣くのをやめて練習を続けました。

 

モーツアルト『トルコ行進曲』を弾くことになったらピアノがやってきた

子供のおもちゃにピアノは高すぎると考えていた両親でしたが、5年生の時の発表会でモーツァルト『トルコ行進曲』を弾くことになったら、あっという間にアップライトピアノがやってきました。

「自分が変われば周囲が変わる」と言いますが、結果を出すことによって周囲が認めてくれた初めての体験として、(思い通りに行かない時にも)自分の信じるところに従うという私の原点になっています。

 

手が痛いのは指が弱いから?

私がレッスンを始めた1970年代、ネットはもちろん、現代のように情報もなく、メソッドも浸透していなくて、ひたすら根性論でレッスンが行われていました。

弾けないと手を叩かれるのは当たり前、レッスンの順番を待っている間に前の方が泣きながら弾いているのも日常茶飯事。。。

 

どうやったら弾けるようになるのか教えてもらった記憶もなく、ひたすら鍵盤の底までしっかり押さえて強い音で弾くように言われ続け、頑張る日々・・・

チェルニー40番を弾くようになった小学6年生頃には、途中で手が痛くて最後まで弾きとおすのが難しくなっていました。

先生に

「手が痛い」

と言うと、

「指の力が弱いから痛くなる、指が鍛えられれば痛くなくなる」

と言われ、そうなのかな~と頑張る一方で痛くてとても弾け続けられない現実・・・何かおかしいんじゃないかと疑問を感じるようになった頃、父の仕事の都合で転居・転校、もれなくピアノの先生も替わることになりました。

 

ブラスバンド部でアルトサックスに夢中だった中学時代

先生を替わったら、指の体操やスケール&アルペジョなどの課題を沢山与えられましたが、それらの課題も何だかピンとこなくて興味がわかずピアノ熱が冷めかけた頃・・・

中学1年の冬にまたしても転居・転校、成り行きでブラスバンド部に入部することになりました。

ホントはフルートを吹きたかったのですが、「フルートはもういっぱいなの。アルトサックスが足りないからお願いね」と部長さんに言われ、アルトサックスがどんな楽器なのかも知らないままに「はい」と言って渡された大きな楽器に「えっ?!」と思いながらも練習を始めたら、これが楽しくて夢中になりました。

吹奏楽のレパートリーはポピュラー中心なので、コードネームや即興演奏の本を買って勉強したり、ピアノでも吹奏楽で演奏する曲を弾いてみたり・・・

自分の楽器アルトサックスだけでなく、他の楽器も吹いてみたり、木管アンサンブルもやり、熱心な部員たちと音楽三昧の楽しい毎日を過ごしていました。

 

ルビンシュタインの弾くショパンを聴いてピアノに舞い戻る

新しいピアノの先生を探すこともなくアルトサックスと吹奏楽に夢中になっていた中学2年の秋のある日、ふとルビンシュタインのスケルツォ・バラード全集を聴き、スケルツォ第2番が流れた時に、はたと我に返りました。

 

それは、小学6年生の夏に地元の青少年たちが出演するピアノコンサートで高校生の男の子が弾いたその曲のこと・・・

とりつかれたようなその演奏は、瞬きするのも息をするのも忘れてしまうような凄い影響力で会場の空気が別世界になってしまったような不思議なものでした。

弾き終わったら、拍手以上に凄いどよめきが起こり、隣の母も耳元で「凄かったね・・・」とささやきました。

音楽の威力、ピアノという楽器の可能性、ショパンのスケルツォ第2番という作品の世界の凄さ・・・ビフォー・アフターではないですが、それまでと世界が変わるほどの衝撃に、「ピアノを弾くってこういうことなんだ。私もこんな演奏がしたい!」と心に決めました。この時の経験は、演奏するとは心を動かすことだと、私の心に刻み込まれました。

・・・この時、その体験を思い出し、ピアノに舞い戻りました。

同じ頃に書店で偶然ピアノの奏法の本(天池 真佐雄『ピアノの弾き方』絶版)に出会いました。レッスンで習うことが全てではないと悟り、楽書やピアノ雑誌『ムジカノーヴァ』(今よりもずっと専門誌)を読むようになります。

 

ピアノ熱再燃したら悪い癖がついていたという現実が目の前に

吹奏楽部の活動は続けながらも、ピアノ熱再燃し、中学3年に進級するとほぼ同時に新しい先生につくことになりました。

そして、全くなってないと嘆かれ、こう言われました。

「あなた、そんな(悪い癖のついた)手じゃ、今に弾けなくなるわよ」

「どうしたら治りますか?」

と私が聞いたら

「わかりません、自分で考えなさい」

との答えが返ってきました。

・・・現代ではとんでもない話です。さっさと先生を替わるべきですが、当時は先生もそれほど沢山はいなかったし、奏法やメソッドもまだまだ発達途上で、こんなレッスンがまかり通っていました。

 

いいピアノの先生になる!と決意

練習曲を弾くと手が痛い、オクターブが上手く弾けない・・・

その原因が、手首に力が入っている、指の形が悪いなど、悪い癖が原因だということがわかったものの、どうしたら治るのか先生は教えてくれない・・・

けれど、私はかつて聴いたショパンのスケルツォ第2番の強烈な印象と、ルビンシュタインの弾くショパンに、ピアノを弾きたいモードのスイッチはOnになってしまい、どうしても弾きたい、上手くなりたいと思ったので自分で考えることにしました。

 

高校進学を控え、将来の職業を考えるお年頃、

いいピアノの先生になる!
本当のことを教える先生になる!
先生を替わる度に言われることが違うなんておかしいし、習っているのに悪い癖がつくなんておかしい!

と決意。

高校に入り、ピアノ奏法の本や楽書を片っ端から読んで試行錯誤を重ね続けます。

春は蝶々を、夏は蝉を追いかける少女時代でした。
(写真はイメージです)

 

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