国内のピアノコンクールの演奏が”命乞い”みたいに聴こえるのはなぜだろう

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2020年夏、あるピアノコンクールのネット配信を聴いていて素朴に感じたことをつぶやいたら、(私としては)びっくりするほどバズってしまいました。

 

 

ただボソッとつぶやいたつもりだったのに、2日間で300を超える反応・・・

同じことを感じる人が実はいるんだ~と思う反面、それならばなぜこの状況は改善されないのだろうと複雑な心境です。

コメントも色々頂き、最初はリプライしていたのですがあっという間に追い切れなくなりました。リツイートで拡散されるにつれ文脈をわからずに”字句通り”に反応されたものが多くなり、どうリプライしていいのか悩むので傍観しています(すみません)。

沢山のリアクションを見ながら、この独り言に実は色んな本音があることに気づきました。そこを少し考えてみようと思います。

 

~♪~

この記事を書いた人
伊奈葉子 / Yoko Ina

音楽と自然と読書とお茶時間をこよなく愛するピアノ弾き。
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~♪~

私はコンクール否定派ではありません

まずはじめに全力で断っておきたいのですが、

私はコンクール否定派ではありません。

というのも、国内外のコンクールを通じてその存在を知ることができた演奏家が沢山いるからです。その中には優勝した人もいるし、一次予選で敗退してしまった人もいます。でも、とにかく、彼らがコンクールに参加してくれたからこそ、その存在をすることができ、素晴らしい演奏に感動し、彼らのことが記憶に残り、ぜひまた聴きたい、来日したら必ず聴きに行こうと思い、そして来日が実現すれば可能な限り聴きに行くという流れになり、それは私の音楽体験をとても豊かにしてくれています。

2005年のショパンコンクールから国際コンクールのネット配信を聴くようになり、その時の優勝者ラファウ・ブレハッチをはじめ、アレクセイ・ゴルラッチ、アレッサンドロ・タヴェルナ、ヴァディム・ホロデンコ、ミロスラフ・クルティシェフ、アレクサンダー・ロマノフスキー、フィリップ・コパチェフスキー、アンドレイ・ググニン、エフゲニー・ボジャノフ、マルチン・コジャック、ニコライ・ホジャイノフ、シャルル・リシャール=アムラン・・・

直近では、岸本隆之介さん、五条玲緒さんなどはこの夏のコンクールではじめて存在を知りましたし、以前から知っている谷昂登さん、三上結衣さん、森本隼太さんなどの成長ぶりを聴くことができたのもコンクールのおかげです。

もしもコンクールがなかったら彼らのことをどうやって知ることができたのでしょうか?

聴衆にとっては、コンクールは色んな演奏家を知る機会であるし、演奏者にとっても広く色んな人に聴いてもらえる機会です。

 

ショパン、リスト、そしてドビュッシーの時代のようにピアノ音楽が”閉じたサロン”の中で育まれたのははるか遠い昔のこと・・・

今やいかにファンを獲得するかというのは演奏家にとってもクラシック音楽界にとっても大きな命題です。その意味でもコンクールは避けて通れません。

コンクールの弊害は言われるものの、もうコンクールのない時代に戻ることはないでしょう。

だからこそ、コンクールについて現実的にしっかり考える必要があると思うのです。

 

熱演するのも命賭ける勢いで弾くのも尊いことです

ということで、私はコンクール否定派ではなく、むしろコンクールを大いに楽しんでいます。

 

そこで本題。

件のツイートはその前のツイートとの関連でつぶやいています。最初のツイートはこれ。

 

 

 

そしてバズったツイートです。

 

 

 

このツイートでわざわざ「国内のピアノコンクール」としたのは、ピアノ以外のコンクールをほとんど知らないこと、そして、ネット配信される国際ピアノコンクールと国内のピアノコンクールとでは、演奏のコンセプトとも言うべき根本的な違いを感じているからです。

これこそが本当に大事なところだと思っているのですが後述することにして、まず私は決して”熱演”を否定しません。

 

そもそも、クラシック音楽の作品というのは、作曲家が心血注いで生み出したものです。だから、全身全霊を賭けて演奏するというのはごくフツーのことだと考えていますし、私は音楽は人生を賭けるに値するものだと思っています。

だから、コンクールで参加者たちが彼らの全てを賭けて演奏するのは当然だと思うし、それ自体は全く悪いことではないと思っています。

問題は、

人生(命)の賭け方であり、方向です。

 

その方向というのは難しい問題で、何が正しいのかひと言では言えません。しかし、方向が適切ではないとやはり上手くいかないし、それでピアノをやめてしまうことになった人は、周囲に少なからずいます(私自身も故障⇒挫折した経験があります)。

 

痛々しくて聴いていられない

というのは、ふたつの意味があります。ひとつは過去の自分や志半ばで弾くことをやめてしまった人や弾けなくなってしまった人たちとオーバーラップするような感じ。もうひとつは、彼ら自身が色んな想いから自らの心身を痛めている感じがするからです。

音楽とピアノに人生賭けるのは決して悪いことではないと思っています。しかし、賭けるというのは一か八かの大博打ではないはずですし、まして自虐行為であって良いはずがありません。

 

コンクールに優勝・入賞できない、あるいは、予選を通過することさえできないとしても、音楽とピアノと共に過ごした時間は人生のかけがえのない財産となって自他共に幸せをもたらすものであって欲しい・・・

音楽はやはり人を幸せにする存在であるし、ピアノはそのような魅力あふれる作品が沢山ある素晴らしい楽器だからです。

 

”命乞い”と”献身”を分けるもの

さて、ここからが核心なのですが・・・

以前から国内のピアノコンクールでの熱演ではしばしば”命乞い”みたいだと感じることがよくありました。もちろん全てではありません。

国際コンクールでも皆無ではありませんが、ぐっと少ないです。アジアからの参加者には時にありますが、ヨーロッパやロシアのコンテスタントの演奏に感じることはあまりありません。

この違いって何だろう?

ずっと考えてきたのですが、結論から言うと

音楽とは何か

をどう考えているかの違いじゃないかと思うのです。

 

国内のピアノコンクールで聴く演奏には、しばしば共通してこんなことを感じます(”常に”ではありません)。

クレッシェンドしてます~!
(これ以上できませ~ん)
アクセントつけてます~!!
(これ以上無理で~す)
一生懸命歌っています~!!!
(これ以上歌えませ~ん)
心を込めて一生懸命弾いています~!!!
(もうこれが限界で~す)

そして、

私は精一杯頑張っています!
(ちゃんと弾いているでしょ!認めてください!!!)

 

どうしてこういうことになるのかと言ったら、(現代の日本では)ピアノを習い始める瞬間から、まず先生に言われた通りに上手に弾くことを求められるからだと思います。

これは、お菓子作りに例えるなら、マドレーヌを食べたこともなくお茶時間の楽しみを知らないのに、いきなり美味しいマドレーヌを作れ!と要求するのに似ていると思います。わからないから言われる通りに作るしかないので、褒められればよし、そうでなければダメ・・・そういう基準になるしかありません。

 

ピアノにはじめて出会うのが「ピアノ教室」という子供が多い日本の現状で、習わせる親も月謝を払う以上は上手に弾いて欲しいと求める中、幼稚園児からコンクールに出して賞を取らせれば親は納得する・・・

褒められれば誰だって悪い気はしませんし、賞は嬉しいものです。音楽の楽しみ方やピアノの演奏を弾き合い&聴き合う喜びを知るよりも前に、親や先生に褒められることや賞をもらうことがモティベーションになってピアノを頑張る子たちがかなりいます(実際、賞を獲れなくなるとピアノを辞めてしまう子も少なくありません)。

 

演奏そのものの喜びよりも、頑張って認められることが大きなモティベーションになっているから、一生懸命頑張るほど「認めて欲しい」も比例して大きくなり、「命乞いみたいに聴こえる」演奏になってしまうのではないかと思います。

 

でも、

音楽って、”ちゃんとやっています!”アピール大会なのでしょうか?

クレッシェンドって書いてあるから
 クレッシェンドして・・・
アクセントが書いてあるから
 アクセントつけて・・・
もっと歌ってと言われるから
 身体くねくねさせて顔芸して・・・

 

違いますよね。。。

 

作品が描いている世界をそこに実現し、
聴く人と共有することですよね。

それは、ストーリーだったり、
思いもよらない展開になるドラマもあるし、
空気とか、
温度とか、
色とか、
肌触りとか、
香りとか・・・

日常を超えた未知の夢の世界を旅するようなそんな体験をもたらしてくれるのが音楽でしょう。

 

素晴らしい演奏を聴くにつれ凄いなと思うのは、音楽への献身の姿勢です。

いつだったか、アンジェイ・ヤシンスキのマスタークラスを聴講した時に、

全身の細胞ひとつひとつが
その音、そして作品を演奏するために存在し、
そして働くつもりで・・・

っておっしゃっていました。

素晴らしい演奏をする演奏家を見ていると、ステージにいるのはその世界を実現するためで、そのために彼らは生まれてきてピアノの前にいるんだという感じがします。

そこに”彼自身”はいません。

「クレッシェンドしてますアピール」も「歌ってますアピール」もなく、ああだこうだという想いは練習の時に昇華されて結晶やエッセンスが表れる。誤解を恐れずに言うなら、時に”神”を見る想いがするほど崇高な世界が現れる・・・

それは、彼らが音楽をそのようなものだと認識しているからだと思います。

 

はなはだ乱暴な言い方ですけれど、やはりヨーロッパやロシアでは

音楽とは何か
ピアノを演奏するとはどういうことか

ということを常に問う教育が日本より行き届いていると思います。

 

ピアノを習い始める最初から、上手く弾くことを求めてコンクールに出すのではなく、音楽の不思議さを自分で感じること、音が描く世界を自分で楽しんでみること、そして、聴く人とコミュニケーションする経験を沢山積重ねれば、音楽って何なのか、違う概念が形成されるのではないでしょうか。

 

クラシック音楽を演奏する以上、
大切なのは、
音楽と作品への献身と
作曲家への敬愛だと思います。

 

・・・好き放題書きましたので、色んな感想をお持ちの方がいらっしゃることでしょう。

どうぞ、ご自身の責任においてご自身のメディアで発信してください。

 

若い素晴らしい才能が、
努力の方向を誤ることなく、
立派に花開き、
大きな実を結ぶように・・・

願ってやみません。。。

 

 

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