【ピアノ日記】演奏はエネルギーとパワーと体力~ウィーンオフで得たもの

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新春の空気が残る1月19日(土)ウィーンに関連した作品だけを演奏する『ウィーンオフ』という演奏会に参加しました。

会場は府中の森芸術劇場ウィーンホール。

本番が練習通りに行かないことはわかりきったことですが・・・

それでも「天国と地獄」一日で味わったような貴重な経験をメモしておこうと思います。

ウィーンホールのベーゼンドルファーは状態もとてもよく、ホールの響きも素晴らしく、最高の環境でした。

まず第一部ではチェロとのデュオ。プログラムは

  • バッハ=グノー『アヴェ・マリア』
  • シューベルト『アヴェマリア』
  • パラディス『シシリエンヌ』

3曲とも私にとっては20歳くらいの時から弦楽器・管楽器と何十回(20~30のオーダーではなくそれ以上)と演奏していて、シューベルトに関しては、原曲のドイツ歌曲を歌ったことも弾いたこともあります。

何度弾いても、何が起こるかわからないのがライブの醍醐味です。何があっても対応できるように周到に準備をして臨んだつもりでした。

しかし、どんなにシュミレーションしても想定外をゼロにすることはできないように、やはり想定外は起きました。

それもほとんどミラクル、嬉しすぎる奇跡が。。。

最初からいい流れで演奏が進んでいて、気持ちよく弾いていましたが、シューベルトの途中からチェロがなんか(良い意味で)今まで聴いたことがないような音がすることに気づき、

「ひょっとして陶酔して弾いてる?!」

演奏は素晴らしいからいいのですが、本番であまりに調子よく弾いている時って、何かの拍子にふと我に返ってハタとどこを弾いているのかわからなくなり・・・(以下略)というリスクがあります。

「寝た子を起こすな!」じゃないですが、「陶酔しちゃったならそのまま最後まで弾いて!お願いだからハタと我に返らないで!」と文字通り「アヴェマリア」状態、「マリアさま~!Ave Maria~♪」と祈り、とにかく「ふとした拍子」の原因を自分から作らないように合わせることに集中しました。

クラシックファンなら、演奏会でシーンとした静寂の中に流れる奇跡のような演奏に涙したり、この演奏を聴くことができただけでも生きていて良かったと感動した経験をお持ちだと思います。私も、もちろんあります。

そういう演奏をしている演奏者というのはどういう状態なのだろう、ステージという場でこういう演奏をするというのはどういうことなのだろうといつも考えていました。

この時、その一端を垣間見たような気がします。

それは、普段チコちゃんに見つからないのをいいことにボーっと生きている私にはあり得ないレベルの深い集中が必要だということです。

名伴奏者ジェラルド・ムーア著『お耳ざわりですか~ある伴奏者の回想』という本に、歌曲の伴奏をどうやって練習するか記述したところがあります。

はじめて読んだ高校2年の時に、「ここまでやるのか?!」と目を丸くしたのですが、実際に自分が伴奏をするようになってからは、その練習の意味がよくわからなかったのです。

というのも、本番は練習通りに行きません。

練習の時に「ここはちょっと速く!」とか「ここはPPで」とか言われても、本番では全く違うことになるのが常で、嘘つきは何とかの始まりなら彼らはみんな(以下略)というくらい、本番というのは何が起きるかわかりません。

言われたことを全部楽譜に書き込む人もいますが、私は、書き込んだことが先入観になると「その場で起きていること」に集中できないので、何か言われても「はいはい(どうせ本番ぶっ飛んで好き勝手弾くんだから・・・)」と話半分に聴いて、その瞬間起きていることとあるべき音楽の姿の妥協点を見出して弾くようにしています。

でも、この時、はじめてあのムーアが書いていた練習の意味がわかりました。

つまり、演奏を精緻に仕上げるというより、高い集中力と完全なるコントロールを手に入れるための練習なのだと。

そして、アクシデントが起きた時よりも、演奏が素晴らしい時の方が(アンサンブルが)大変だということもはじめて経験しました。

事故った時にできることは被害を最小にすることでタカが知れています。

でも奇跡のように素晴らしい演奏は上限がありません。しかも、それは全く未知の領域で、蜘蛛の糸の上を歩くように繊細で、わずかな傷ですべてが台無しになってしまいます。文字通り完璧でなければなりません。

・・・予期せぬ極度の深い「集中」は、脳の今まで使ったことのない部分に初めて血液が流れ込んだような感じで、物凄いエネルギーを使いました。

無事弾き終わった時には、バッテリー切れ状態、そのまま帰って充電したかった(=寝たかった)けれど、その後、第2部でソロを弾くことになっていて、ステージに上がりました。弾いたのは以下の2曲。

  • J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻より第1番
  • メンデルスゾーン ピアノソナタ第3番より第1楽章

演奏に一番必要なもの、それはエネルギーであり、パワーであり、体力だということを痛感しました。

この日の一番の反省点は、出演が2度(以上)ある時に、食事(=充電)をどうするかということでした。

さて、この日、とても考えさせられる会話がこの後ありました。

休憩時間に、この日はじめてお会いした、素晴らしい演奏をされた方(仮にAさん)とこんな話になりました。

A:「若い頃は伴奏もしていたんですが、やめたんですよね」

私:「どうしてですか?」

A:「責任あるじゃないですか、間違ってゴメンじゃ済まないし。相手の運命背負っているというか・・・」

私:「・・・」

思わず絶句したのは、(音楽上の)パートナーを務めることの重大さを改めて思い知ったからでした。

それもいい演奏になればなるほど責任が重くなることをズシリと感じたからです。

ほんの少しお話しただけでもその方の音楽への造詣の深さは並々ならないことが伺われ、アンサンブルのパートナーも素晴らしく立派に務められることは間違いありません。

にもかかわらず、きっぱりと「伴奏はしない」と言い切ったその言葉(姿)に、こういう人が伴奏をやめてしまうから、みんな(弦・管・歌)伴奏者に苦労するんだ・・・と思い、わが身を振り返りました。。。

でも、失敗しないでいい演奏にたどり着くことはないし、会の趣旨は「レベルに関係なく演奏を楽しみましょう」だし、両方チャレンジしたから経験できたことがあると納得することにしました。

振り返って、あの奇跡のような時間とその時の集中レベルは、ひとりで演奏しているだけでは生涯決してたどり着けない領域だったかもしれないと思います。

いい演奏を生み出すのは深い集中とコントロールだということを体感させていただき、チコちゃんに見つからなくてもぼーっと弾き散らかすのではなく、ちゃんと練習しようと思う今日この頃です。

主催者ののさんをはじめご一緒した皆さま、そして、素晴らしい瞬間をもたらしてくれたチェロ氏に心から感謝します。

ありがとうございました。

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この記事を書いた人

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伊奈葉子 / Yoko Ina Piano Teacher

自分の手で演奏できるのが何よりの喜びです。フォーカル・ジストニア他で2度の挫折を経て音楽とピアノはさらにかけがえのない素晴らしい存在になりました。ピアノ・音楽、自然とアートとお茶時間をこよなく愛しています。詳しいプロフィールはこちら